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死と直面したとき

  • Posted by: Nihei
  • 2004年6月16日 15:13
  • Diary

ピヨ方の身内が急に亡くなり、葬儀やらなにやらに出席していた。
「亡くなった」という第一報が入ったとき、まず考えねばならなかったこと。
それは「ナニを着ていこう」ということだった。ここ数年、慶事にはフォーマルに見えなくもないスーツを着ていたりしたが、幸い(?)身内の弔事はなかったので、それ用の礼服がなかったのだ。で、先方に向かうその朝、スーツカンパニーで礼服を買い、1時間で裾あげしてもらった。結構融通の利く小売店はありがたい。百貨店の売り場ならこうは行かないんじゃないのかなあ、と思ってみたりもした。

それはともかく。

ぼくがようやく大学に入った年、父親がクモ膜下出血で倒れた。
意識のない父親が横たわる集中治療室のベッドの脇で深夜、パイプ椅子に座りながらそのときもぼくは「ナニを着よう」と思っていた。高校は私服だったので着られる制服もないし、礼服だって持っちゃいない。こういうときはどうするもんなんだろう? とそんなことばかり考えていた。父親の死に直面したときも、ぼくはそんなことを考えていた。いや、ほかにももっといろいろ思うことがあったのかもしれないけれど、いまぼくが記憶しているそのときのぼくの思考はそういうことだった。

誰かの死と直面したとき、その人ことを深く思うよりも先に、やっぱりまずは自分の周りのことを考えなければならないのが現実だろう。わりと下世話な、たとえばぼくのような「ナニを着ていこう」というような不遜なことを。故人のもっと身近な立場の人だって、「葬儀までどう取り仕切らないといけないかしら」的な現実的なことを考えざるを得ないはず。手放しで涙を流し、この新しい死を迎え入れるだけでは事態はなにも変わらないだろうし。もっとも、故人に近い人はそうやって葬儀で忙殺されることで、大切な人を失った悲しさを紛らわせるものだ、という話もある。
それにしたってとにかく人は、死に直面したときにその死に関して直接的に考えることをあとまわしにするんじゃないだろうか。いろいろと、千々に乱れる思考はいったん保留しておくのだ。そして葬儀などが一段落して、もはや物理的な死と直面していない状態で、ようやく気分的に死と直面するんじゃないのかな、なんてことを、しばらく考えていた。
今回亡くなった方に関して、ぼくはほとんど生前のことを知らない。だからそれほど多くの気持はわき上がってこない。でも葬儀から数日経って、ピヨをはじめとする親族の方々はじんわりとその死に直面できて、いろいろと考えているのかもしれない。

ちなみにぼくの父は、一晩ICUで過ごしたあと翌日の手術が成功して生還し、いまも存命している。もちろんいずれ父の、そしてそれ以外の死にも直面しなければならないだろう。そしてそのときぼくはどういうことを考えるのかなあ、などとも思ってみたりしている。やっぱり着るものの心配なんかをしている気もするんだけど。

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